藤原 家経(ふじわら の いえつね)は、平安時代中期の貴族・学者・歌人・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)、参議・藤原広業の長男。官位は正四位下・式部権大輔。

経歴

後一条朝の長和5年(1016年)頃文章得業生に補され、対策に及第。11月21日に文章博士・大江通直を問頭として家経へ試問が行われている。

六位蔵人兼右衛門尉を務めたのち従五位下に叙爵し、寛仁4年(1020年)刑部権少輔に任ぜられる。弾正少弼を経て、万寿2年(1025年)右少弁に遷ると、後一条朝の後半は弁官を務めたほか左衛門権佐も兼帯し、万寿3年(1026年)従五位上、長元3年(1032年)正五位下と昇進した。なお、この間の治安4年(1024年)3月1日に邸宅が全焼している。

その後、民部権大輔を経て、正四位下・式部権大輔に至る。

後冷泉朝の天喜2年(1054年)5月11日に出家。天喜6年(1058年)5月18日卒去。享年67。

人物

父・広業と同じく漢詩をよくした。さらに和歌にも通じ『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に16首が入集している。永承4年(1049年)の『内裏歌合』、永承5年(1050年)『祐子内親王家歌合』などに出詠している。長元9年(1036年)には後冷泉天皇の大嘗会和歌を詠進した。能因法師・伊勢大輔・藤原範永らと交流があった。

官歴

  • 寛仁2年(1018年) 正月10日:六位蔵人
  • 寛仁3年(1019年) 正月23日:検非違使宣旨。8月28日:見蔵人右衛門尉
  • 寛仁4年(1020年) 10月17日:刑部権少輔
  • 治安3年(1023年) 9月7日:止侍読
  • 治安4年(1024年) 3月2日:見弾正少弼
  • 万寿2年(1025年) 正月29日:右少弁
  • 万寿3年(1026年) 正月7日:従五位上
  • 万寿4年(1027年) 正月27日:兼備後介
  • 万寿5年(1028年) 2月19日:左衛門権佐
  • 長元3年(1032年) 日付不詳:見防鴨河使右少弁左衛門権佐文章博士備後介。正月5日:正五位下
  • 長元5年(1034年) 2月8日:信濃守
  • 長元9年(1038年) 5月1日:見民部権大輔
  • 時期不詳:正四位下。式部権大輔
  • 永承5年(1050年) 6月5日:見讃岐介
  • 天喜2年(1054年) 5月11日:出家
  • 天喜6年(1058年) 5月18日:卒去

系譜

  • 父:藤原広業
  • 母:安部信行の娘
  • 妻:藤原能通の娘
    • 男子:藤原正家(1026-1111)
    • 男子:藤原広家
  • 妻:藤原公業の娘
    • 男子:藤原行家(1029-1106)
    • 男子:長済(?-1077)
  • 生母不明の子女
    • 男子:経円
    • 女子:藤原通宗室
    • 女子:藤原弘信室

脚注

参考文献

  • 宮崎康充編『検非違使補任 別巻』続群書類従完成会、2006年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

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