マクシミリアンマックス・エマヌエル・イン・バイエルン(Maximilian (Max) Emanuel Herzog in Bayern, 1849年12月7日 - 1893年6月12日)は、ドイツ・バイエルン王国の王家傍系出身の軍人、バイエルン王国議会議員。バイエルン公(Herzog in Bayern)の称号を有する。

生涯

バイエルン公マックス・ヨーゼフとその妻でバイエルン王マクシミリアン1世の娘であるルドヴィカの末息子として生まれ、マッペルル(Mapperl)の愛称で呼ばれた。次姉はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトである。

マックス・エマヌエルは幼い頃から軍事に関心が強く、1865年に16歳でバイエルン王国軍第3軽騎兵連隊に入隊し、後にバンベルク駐屯のバイエルン王国軍第1槍騎兵連隊に転属した。後に陸軍少将にまで昇進しており、ミュンヘンの騎兵学校校長を務めている。

マックス・エマヌエルは1875年9月20日にオーストリアのエーベンタールにおいて、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のカトリック系の分家コハーリ侯爵家の家長アウグストの娘アマーリエと結婚した。夫婦仲は良好だったという。

この縁談が持ち上がった時、本家のバイエルン王子レオポルトもアマーリエに関心を寄せていたが、姉の皇后エリーザベトが介入して弟とアマーリエを結婚させ、レオポルトには自分の娘ギーゼラをあてがった。

妻アマーリエとの間には3人の息子をもうけた。

  • ジークフリート・アウグスト・マクシミリアン・マリア(1876年 - 1952年)
  • クリストフ・ヨーゼフ・クレメンス・マリア(1879年 - 1963年)
  • ルイトポルト・エマヌエル・ルートヴィヒ・マリア(1890年 - 1973年)

胃潰瘍を患い、1893年6月12日に胃からの大量出血が原因で亡くなった。43歳だった。

系譜

より詳細な系譜

外部リンク

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バイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルの肖像

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