ピョートル2世(Пётр II, 1715年10月12日(ユリウス暦)/10月23日(グレゴリオ暦) - 1730年1月19日/1月30日、在位:1727年 - 1730年)はロマノフ朝第7代の君主、第3代ロシア皇帝。ピョートル1世の孫。父はピョートル1世とその最初の妻エヴドキヤの息子アレクセイ・ペトロヴィチ大公。母はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルドルフの次女シャルロッテ・クリスティーネ。マリア・テレジアは母方の従妹、ロシア皇帝イヴァン6世の父アントン・ウルリヒは母方の従弟に当たる。

生涯

1715年10月23日に生まれた後、間もなく母を失い、父も1718年に廃嫡され非業の死を遂げたため、当初は後継候補から除外されていた。隔離されて育ち、祖父のピョートル1世も彼を系統的に無視した。最初にピョートル2世の家庭教師を務めたのはオランダ人居留地に住む仕立屋とぶどう酒商人の妻であり、ノルマン(Norman)という名前の海員がピョートル2世に航海の基礎を教えた。その後はハンガリー人難民で元教師のヤノーシュ・ゼーカーニ(János Zékány)が家庭教師を務めた。エカチェリーナ1世の治世にも顧みられなかったが、1727年に彼女が崩御する直前、大貴族たちはもはやピョートル2世を帝位継承から排除できなくなったと考えた。ピョートル2世は国民の大半と貴族の4分の3から支持を得たのであった。母の姉が神聖ローマ皇帝カール6世の妻だったため、カール6世は一時ロシア駐在オーストリア大使アマデウス・ド・ビュッシー=ラビュタンを通じてロシアの帝位継承を主張した。ラビュタン、アンドレイ・オステルマン、アレクサンドル・メーンシコフの交渉の結果、1727年5月18日、ピョートル2世は皇帝に即位した(ただし、公式にはエカチェリーナ1世の遺言に基づくとされた)。その後、オステルマンがピョートル2世の教育係を務めたが、メーンシコフはピョートル2世をワシリエフスキー島にある自身の宮殿に連れて、娘のマリヤ・メーンシコヴァと婚約させた。1727年9月11日にメーンシコフが失脚するとマリヤとの婚約も取り消されたが、代わってヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフが実権を握った。ドルゴルーコフはピョートル2世をサンクトペテルブルクからモスクワに連れていき、次女のエカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァと婚約させた。ピョートル2世は1728年2月25日にモスクワで戴冠した。

結婚式は1730年1月30日に行われる予定だったが、その日に天然痘のため崩じた。ピョートル1世の姪アンナが帝位を継いだが、ピョートル2世の崩御によってロマノフ家の男系男子の血統は絶えた。

系図


脚注

外部リンク

  • Zar Peter II Russland(ドイツ語)

皇帝ニコライ2世、ロシアの最後の皇帝。

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